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墨田の歴史
先史・原始時代
人類の歴史が始まった紀元前6千年ごろはまだ海の底でした。長い年月をかけて東京湾北に入江がひきはじめ、数条の河川が運んだ土砂が堆積し、土地が生まれました。これが墨田区の基盤になったといわれます。吾妻橋3丁目にあった業平塚、立花1丁目の吾嬬神社裏の塚は、出土品などから、先史時代の遺跡とされていますが、史実ははっきりしません。
奈良・平安時代
9世紀頃から河川の流路もほぼ定まり、「すみだ川」と呼ばれるようになります。古くから陸地化していた北部の堅い州周辺は、武蔵国と下総国を結ぶ渡河地点に発展します、11世紀に綴られた更級日記からもわかるように、このあたり一帯は葦の生い茂った武蔵野のはずれにすぎなかったようです。しかし、デルタ地帯の肥沃な土地を利用して農業が営まれるようになります。12世紀には、源氏に従っていた葛西氏と、このあたりの豪族だった江戸氏に支配されていました。その後戦乱に巻き込まれながらも、16世紀に小田原の北条氏が勢力を得るとその家臣の領地として、再びのどかな農村地帯に戻りました。
江戸時代
明暦3年(1657年)の振袖火事がきっかけに湿地帯の南部開発は急速に発展していきます。振袖火事で江戸は全滅、10万人余りの尊い命が奪われました。幕府は防火対策中心の都市復興に着手し、万治2年(1659年)には隅田川に両国橋を架け市中に防火堤や火除地を設けます。竪川・大横川・南北割下水の開さくや区画整理を進めた結果、武家屋敷を主とする市街となり、江戸の一部を形成していくようになります。一方、北部は農村地帯のまま、江戸市民の食糧供給地として歩み続けています。また、今でも時代を超えて全国の人々に親しまれている墨堤の桜、隅田川の花火、両国の相撲は、この時期に誕生しています。水害に苦しんだすみだですが、文化・文政期には格好の行楽地として歌舞伎や落語の舞台になっています。
明治時代
近代日本を形成した明治時代、新しい首都東京の一角として、新たな役割を果たすようになります。明治11年(1878年)、南部は本所区となり、北部は南葛飾郡に編入されています。日用品、農作物などで盛んだったすみだの産業も、次第に工業地帯化の道をたどります。紡績、精密工業、石けん、製靴が盛んになり、大正期には、輸出向けとして玩具製造やゴム工業などが起こります。交通面では明治27年(1894年)はじめて現在の総武線が乗り入れるなど相次いで交通網が開けていますが、大正12年(1923年)の関東大震災で、本所区は9割余りが焼失し、焼死者4万8千人と、東京市全体の8割強に達する惨状となりました。復興後、都市化が進んだ北部は、昭和7年(1932年)、向島区が成立しましたが、第2次世界大戦の戦火で再びすみだの7割が廃きょと化し、6万3千人の死傷者と30万人近い罹災者を出したと言われています。
墨田区の成立
第2次世界大戦が終わってまもない昭和22年(1947年)、本所・向島の両区が一つになり、墨田区が誕生しました。人口はわずかに14万人でしたが、やがて焼け跡にも住宅や工場が建ち、産業のまちとして復興します。工場数が戦前を上回り、商業面でも飛躍を遂げ、昭和30年代の高度成長期を迎えます。急速な経済発展のなかで、工場には新技術が導入され、大型店舗やスーパーも進出、道路などの生活環境も急速に整備されます。区では教育施設の充実から区民生活向上のための施設、福祉施設や文化・産業施設などの増設、下水設備の改良や道路・護岸の整備、公園の増設、緑化の推進などを着々と行ってきました。


